講演会のテーマは
『チャレンジし続けること』
名波君はいままでの人生、色んな場面でチャレンジし続けてきた。
まず第一声が『はい!お昼食べて眠いでしょうが、講演に集中して~!』
小学校の頃からのエピソード紹介。
点取り屋ではなかったが、『俊足のチャンスメーカー』と言われていた。
ここで笑われる方は、その後の僕の経歴をご存知だと思います‥(大爆笑)
足が速いということで前線に置かれることが多かった。
点を取るときもあればアシストする時もあった。
4、5年から上の学年のチーム呼ばれるようになったが、体の大きくスピードのある5、6年の先輩がいては試合に出れない。
なかなか試合に出れなくて、とても悔しい思いをした。
その中に、渡辺毅という幼馴染がいた。(後に柏レイソルに入団)
彼は同級生なのに、上の学年でも背番号10を背負うバリバリのエースだった。
彼に対して敵対心やライバル心は無くて、憧れの方が強かった。
ああいう風になるにはどうすれば良いか?考えた。
フィジカルも非常強くて、長距離も短距離も速い!
彼のようになるにはどうしらよいか?いろいろ考えた結果
右ききと、左ききというお互いにのを利用して、彼が右サイド、自分が左サイドという仕事の場を作れればいいな!という感じで監督にアピールした。
それが功を奏して5年生の夏休みくらいからレギュラーとして試合に出れるようになった。
同じピッチに立てたのは嬉しかったけど、その後はお互いに負けたくないという気持ちが強くなり、ライバル関係として、お互い切磋琢磨していった。
最初のチャレンジが、この小学校時代のライバルに向かっていくという事を子供心にまず覚えた。
自分がサッカーをしていくうえで、父親と母親には親孝行したいなと考えた。
子供の頃、母親が台所でよく泣いていた。
それを見ていて、なんで泣いているんだと?と思ったら‥
長男と次男が俗にいう不良で、手に負えない子供に母親が毎晩泣いていた。
父親も巨人の星の星一徹のようで、ちゃぶ台をひっくり返すような喧嘩を兄達としていた。
とても刺激的な家族だった。
そんな母親の姿を見て、自分は親孝行をしなければと考えた。
では親孝行するためにはどうすればよいか?
それは自分のストロングポイントを伸ばすしかない!自分にはサッカーしかない。
では、この名波というスペシャリティな名前を有名にするにはどうしたら良いか?と考えた。
小学校のときにプロになりたいと作文書いたが、当時はJリーグも無くプロサッカーもない。
海外のどこの国でやりたいというのも無く、漠然と、とにかくプロの選手になりたいと強く思った。
それを遂行するためにはどうすれば良いか?
幼少時代、小学校、中学校 と名前を売っていかないといけないと思った。
それを遂行するためには、全国大会で活躍する事、優勝する事が重要だと考えた。
ご存知のように静岡県はサッカー王国といわれています。
その中で藤枝というサッカーの町に生まれたが、自分らが物心ついた頃には、すでにサッカーの中心は藤枝から清水に移っていた。
清水のサッカーは小学校、中学校、高校と各年代で全国制覇するスター軍団が揃っていた。
彼らに勝つためにはどうすればよいか?
自分達のチームは、
藤枝市では1位であったが、県大会で1回戦負け
5年のときには清水6位の岡小(田中誠がのちに所属)に負けた。
6年の時には、渡辺、名波の名前も知られ優勝候補と言われていた。
しかし、まったく無名の東部12位の長泉というチームに2-0で完封負けてしまった。
小学校時代には自分の思いは果たせなかった。
中学校時代には3年生のとき静岡県大会で優勝!全国大会に進出
残念ながら全国3位という結果に終わりましたが
僕にとってはじめての初めての輝かしい戦跡を残せた。
まず全国大会に出ると言うチャレンジをクリヤーする!
続いて人生の岐路 まず第一歩 進路設定です。
地元藤枝には、藤枝東高校という素晴らしいサッカーの名門校がったが、まったく行く気がしなかった。
なぜかというと、藤枝東の授業時間が長い!1時限が65分授業で、普通の学校より15分も長い。
この15分の違いが苦痛で、サッカー以外のことで集中力の無い自分には無理だと思った。
みなさんに最初、集中しろ(講演会に)と言っておいて、こういうことを言うのはあれですが‥(爆笑)
最初は地元の藤枝北高校に進学するつもりだったが、ここで人生の転機が訪れる。
清水市立商業の大滝監督から電話がかかり、うちに来て欲しいと言われた。
両親に『どうする?』と聞かれ『行きたいと!』と即答
『親元を15歳で離れるが大丈夫か?』と言われたが、もう大丈夫と言うしかない!
この決断はのちに正しかった思った。
ただ越境留学にあたって、大問題がおこる。
磐田市から浜松市というレベルではなく。
阪神から巨人へ、民主党から自民党に鞍替えするくらい、それくらいの衝撃的な事件であった。
中学3年の冬に、母親がまた台所で泣いていた。
また兄貴がやったか?今度はどっちだ?と思ったら、自分の進学のことで泣いていた。
清水への進学で、まわりの父兄や、教育委員会、近所のひと達に、ある事ない事色々言われて泣いていた。
3年間で5つのタイトルを獲得出来たことからも、この決断(チャレンジ)は間違っていなかった事が証明された。
大学に進学を決めたのは、長男次男と出来が悪くて、3男は頭が良かったが進学しなかった。
4男くらいは大学に行かせた方がいいだろう!という理由で大学進学が決まった。
その後、プロ入りするにあたって、Jリーグの10球団が争奪戦を繰り広げる中、ジュビロ磐田に入団を決めたのは、まず藤枝に近いチームという事。
親が観戦に来やすいという事で決めた。
そして一緒にプレーしたいライバル 藤田俊哉がいた事もその理由だった。
ただ観客席に、名波の親が来ている事を知らないファンもまわりにいる訳で、『名波を代えろ!などの』野次で、親は針のむしろ状態の時もあったみたいです。
Jリーグの背番号が固定制になった時に、
代表でチームを離れていた名波君にジュビロから電話がかかってきて。
「来年から固定番号になるけど何番がいい?」と聞かれ。
「何番が空いてる」と聞いたら、「7番と10番」しか残っていないと言われた。
「だったら7番」という事で、背番号7が誕生したそうです。
その時、藤田俊哉選手が名波君の返事待ちをしていて、
名波君が7番を取ったので、藤田俊哉選手は残った10番を着けることにしたそうです。
ちょっと出来すぎた話ですが、俊哉の優しさが伝わるエピソードですね。
その後の福西君とのトークショーでは、福西君へはその翌年に電話がかかってきて、一桁番号は残っていないけど、何番がいい?と言われたそうです‥ (笑)
その他。色々と面白い内容の講演会でしたが‥
名波君が現役時代に常に思っていたのは‥
優勝するチームに長くいる事より、新しいチームで新しい目標にチャレンジする事!
これが大事だそうです。
セルジオ越後氏と松木氏の爆笑裏話‥
残念だった 上田康太選手 移籍の理由‥
以降、第二部のトークショーに続く‥
☆おまけ☆
ジュビィちゃんの『ラブ注入~』
最近ジュビィちゃんのキャラが変わったよね?
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