デモ走行は、レースを主催する「フランス西部自動車クラブ」の招待で実現。4月に本社に届いた書状には、東日本大震災の影響を受けた日本のメーカーであることや、奇跡の優勝マシンであることなどが招待理由だそうです。
ル・マン優勝車マツダ787B、今季サルテでデモラン
http://as-web.jp/news/info.php?c_id=6&no=33642
各自動車メーカーは生き残りをかけた市販マーケット戦略のひとつとして、
「ル・マンで勝つこと」を命題としてワークスカーを送り出したため、さながらフォーミュラマシンにフルカウルを被せたモデルが数多く登場した時代でした。
そして1991年のル・マン24時間レース。
レギュレーションの変更により、1992年からロータリーエンジンはルマン24時間耐久に使用出来なくなる、そして1991年もその過渡期として、ロータリーエンジンやレシプロターボエンジンはウエイトハンディーと燃料使用量制限が課せられたレースとなっていました。(この年だけNA3.5リッターは燃料使用量制限が解除された)
そんな厳しい条件の中で唯一のロータリーエンジンを搭載したマツダ787Bは注目を集めた車でした。
予選の結果
マツダ787B 55号車 12位 フォルカー・バイドラー/ジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー
マツダ787B 18号車 17位 D.ケネディ/S.ヨハンソン/M.S.サラ
マツダ787 56号車 24位 従野孝司/寺田陽次朗/P.デュドネ
ドライバーも豪華です。
そして決勝レースは、新SWC規格マシン(3.5リットル自然吸気エンジン搭載車)の優勝候補プジョーなどが、初参加の走行ということで次々とトラブルを起こしてリタイヤ。
89年優勝のメルセデスベンツ・C11勢と、前年優勝のジャガー勢が序盤をリードし、マツダの55号車は夜になってメルセデス勢の後、1周遅れの4位につける。その後、メルセデスの31,32号車の2台はトラブルから後退。
早朝、34号車、35号車のジャガー・XJR-12と2位争いをしていた55号車はジョニー・ハーバートに2シフト連続担当させる勝負に出て、これに成功。単独2位に浮上、しばらくこの状態が続く。
しかしレース終了約3時間前の12時54分、2位55号車に3周差をつけて長らくトップを走っていた、1号車のメルセデスベンツ・C11にトラブル(ウオーターポンプのプーリーが破損しオーバーヒート)で緊急ピットイン。その後リタイア。
午後1時4分、55号車はついにトップに立つ。
その後周回遅れの2位ジャガー・XJR-12の追撃を受けるが、無理をせず抜かせてかわし、最後のドライバーはベルトラン・ガショーの予定だったが、コース状況を良く知っているジョニー・ハーバートが引き続き運転、3シフト連続して彼がドライブした。
以降トラブルもなくレース終了まで走りきり、首位を守り抜いた。
(レース中に消費するロータリーエンジンの潤滑用のオイルは燃料の水増しではないかと他チームにクレームを付けられる場面もあったが、主催者によって退けられる)
結果、55号車が優勝、18号車が6位、56号車が8位に入った。
55号車は、コースを362周走行し、距離にして4,923.2kmを走った。マシンがマツダピットに戻ってきたとき、ハーバートは長時間の運転による脱水症状で倒れ、フォルカー・バイドラーとベルトラン・ガショーの2人のみが表彰台へ。
1991年限りで、グループCレギュレーション変更のためロータリーエンジンが参加できなくなったので、ロータリーエンジンが参加できる最後の年に初の総合優勝を果たした。
(以降再びロータリーエンジンは参加可能になった)
マツダとして足掛け18年、13回目の挑戦でした。
日本のメーカーとして初優勝、そしてレシプロエンジン以外を搭載したレーシングマシンとしても初の快挙でした。
莫大な資金を投入した日産や、のちのトヨタでも達成出来なかったル・マン
日本が日本らしかった時代ですね。。。
あれから、20年当時の録画テープ(VHS)もまだ手元にあります。
あ、タミヤのプラモデルとRCも
ちなみにこの派手なオレンジと緑のカラーは、スポンサーのレナウンが、マツダの戦績を見て『優勝は無理だろうからせめてカラーリングぐらいは派手にしょう』ということで、レナウンの服飾デザイナーがカラーリングをデザインしたそうです。
http://youtu.be/XVSY2xBY0q4
http://youtu.be/GrihaS5tkOY
http://youtu.be/mzLcJXPVAQE
http://youtu.be/3DM8qmCPvfg